人災派遣のフレイムアップ 第3話 『中央道カーチェイサー』 1
「ぅえっくしっ!!」
おれは唐突に盛大なくしゃみを上げ、周囲の人々、つまりは長旅の疲れを癒す善良なドライバー諸氏から冷たい目を向けられた。左右に愛想笑いと目礼を振り向いて謝る途中、もう一回大きなくしゃみをする。おれはたまらず、ささやかな夜食、たった今トレイに載せて運んできた味噌ラーメンに箸を伸ばした。世にラーメン数在れど、体を中から温めるという点に於いて味噌ラーメンに勝るものはあるまい。シャキシャキのもやしと甘いコーンが入っていれば及第点。その点、このレストランのラーメンは充分以上の出来だった。いやもうホント、どうせインスタントだろうと覚悟していたのだが、今日は結構ツイているらしい。立ちのぼる湯気にあごを湿らせ、幸せいっぱいに麺をすすりこむと、そのまま一気に三分の一を平らげてスープを飲み込み、熱交換を終えた肺の空気を一気に吐き出す。五臓六腑に染み渡るとはこのことだ。寒い夜のラーメンは格別である。つい先程まではアイスクリームも買おうか等と迷っていたのだが、戯けた考えを自粛して本当に良かった。
――正直に告白しよう。八月だからと言って、Tシャツ一枚にショートパンツとサンダルという格好は、あまりにもこの時この場所をナメておりました。窓際の席からよぉく見える、街の灯火に縁取られた夜の諏訪湖を見下ろし、おれは素直に反省した。
そう。ここは長野県。
八ヶ岳に抱かれたいにしえの湖を眼下に望む、中央高速自動車道、諏訪湖サービスエリアこそが、只今このおれ亘理陽司の存在している場所なのだった。
とはいえ、時刻は日付も変わろうかと言う深夜。せっかくの絶景も既に闇に沈んでおり、おれの感覚を占めているのは、本当にかすかにざわめく水の音ときらめく灯り、そして店内の喧騒と、響き渡る有線の音楽だった。世間様は夏休み真っ最中だが、さすがにこの時間帯になれば、店内も観光客より地元の若者やトラックの運転手の占める割合が多くなってくる。セルフサービスの無料のお茶(ホット)の紙コップを三つほど積み上げラーメンを堪能しながら、TVで流されているニュースと画面の右上に浮かんだ時刻を見やった。ザックに仕舞い込んだ週刊誌も粗方読みつくしている。
おれがこのサービスエリア内のレストランに陣取ってから、すでに六時間以上が経過しようとしていた。もう一つ、盛大なくしゃみ。まったく、夜の高地がここまで急激に冷え込むものだとは。まあ、半分以上は不可抗力だと思っている。何しろ夕方三時に、まるで税務署の酷吏のように住民をぎゅうぎゅうと締め上げる東京の焦熱地獄を脱出した時には、とてもこんな肌寒さを予想するどころではなかったのだから。
麺を半分ほどすすり終え、お楽しみに取っておいた大きめのナルトをいただこうとしたところで、『銭形警部のテーマ』がポケットから響き渡る。
「はいはい、亘理ッス」
それに対する返答は、受話器ではなくレストランの入り口から響いてきた。
「いたいた、おーう陽チン、待たせたな!」
「陽チンはやめてくださいって、仁サン」
おれは苦笑しつつ手を振る。玄関のドアが開き、レストランの入り口に一人の男が入ってきた。とりたてて美形と言うわけではないが、不思議と人目を引く男だ。二十代前半、長身に纏った薄手のシャツの下には、分厚い、実用的な筋肉がうねっているのがわかる。野生を感じさせるその面構えも相まって、ハードレザーでも着せて夜の街に立たせておけばさぞかし同性にモテるだろう。本人はさぞかし嫌がるだろうが。そんなおれの勝手な想像を知る余地もなく、青年はおれの視線を捕らえるとにやりと笑い、真っ直ぐ歩を進めてきた。
「都内出発から占めて九時間。随分待たせてくれるじゃないですか」
「何だお前、せっかく給料つきで自由時間くれてやったってのに、まさかただここで座ってました、なんてほざくんじゃないだろうな?」
おれの苦言などどこ吹く風。人ごみを飄々とすり抜けてこちらに近づいて来る。いつの間にかその右手にはトレイが握られ、気がつけば大盛のカツ丼とサイドメニューのうどんがそこに載り、テーブルに辿り着くまでにはデザート代わりのたこ焼きまでが載っていた。そのまま無造作にトレイを置くと、どっかりとおれの対面の椅子に腰を下ろす。いったいいつの間に食券を買って注文して、あまつさえ出来上がるまで待っていたというのか、等という愚問はこの人にはぶつけるだけ無駄である。付き合いはそれなりに長いが、教えてもらった事は一度も無いのだ。いわく、タネをばらしたら法でなく術になってしまうのだとか。
「アルコールも無しで夕方以降の六時間をどう潰せと?」
実際、諏訪湖に降りたならまだしも、このサービスエリアの中で周れる場所などたかが知れている。最初の一時間で一通り探索を終えた後、雑誌と違法改造携帯電話『アル話ルド君』にため込んだ動画と音楽、そしてTVニュースのお世話になっていた次第。エリア内には温泉があったのだが、どうせこれから散々汚れる事を考えると入る気にはなれなかった。
「出会いに二時間、食事に一時間。その後もうちっとお互いの理解を深めるのに二時間ってとこだろ」
心底出来の悪い弟子を嘆くような表情でこちらを見るのはやめて欲しい。
「生憎とおれの売りはアンタと違って、手の早さよりもじっくりつきあってこそわかる篤実な人格って奴なんですよ、仁サン。だいたい車をアンタが運転していっちゃったんだから、理解を深める場所も無いじゃないですか」
「木陰があれば充分だろ」
「アンタが言うと冗談に聞こえませんね」
「たこ焼き食うか?」
「いただきましょう」
このハードゲイ、もとい好青年は鶫野(つぐみの)仁(ひとし)さん。おれ達同様、人材派遣会社『フレイムアップ』でアルバイトに励むメンバーあり、その中でも古株に属する一人だ。今では自然とアルバイト達の取りまとめ役になっており、多数のメンバーが派遣される任務の際には、社員達のバックアップを受けて前線を指揮する小隊長になる事が多い。おれや直樹あたりにとっては、この仕事を始めた当時から何くれとなく世話になっている頼れる先輩といったところ。今回の仕事を引き受けたおれを、都内からこの諏訪湖まで愛用の四駆で引っ張って来たのも仁さんなのである。
「と言っても、今回はただの運搬役兼準備役だ。うちからの正式な選手は、お前と真凛ちゃんの二名、という事になる」
「こういう混成部隊で失敗しても、『任務成功率百パーセント』は維持出来ないんですかねぇ?」
「何言ってやがる、もともと失敗するつもりなんぞないくせに」
それもそうだ。そろそろ本題に入るべく、おれは話題を転換する。
「で、例のブツは?」
「あー安心しろ。お前がさみしい六時間を過ごしている間にバッチリ出来上がってんぜ」
これまた手品めいた仕草で仁サンがするり、と取り出したのは、ノートパソコンを収納するような耐衝撃性を高めたキャリーケースだった。ずいぶんと身が厚く、金槌でぶったたいても内容物に傷を負わせる事は出来そうに無い。なんでも引越し業者が精密機器の梱包に使うモノの親分筋なのだとか。
「お待ちかねの後半部分がこの中に入っている。作者から受け取ったその足でここまで運んできた。前半部分はすでに敵さんが持ち去って、ルールどおり待機してんぜ。諏訪のインターから上がってくる予定だ」
「あちらは契約どおり四人?」
「四人だそうだ。そしてこちらもお前さん以外の三人は準備OKだとよ」
マヨネーズのたっぷりのったたこ焼きと、勿論忘れずにナルトを口に放り込むと、おれはケースを手にとって眺める。ケースの口の部分には、これが『誰も開封していない』事を示す、封印の紙が貼り付けてあった。無駄だと解ってはいても、何とかしてその中身を閲覧できないか、と上下左右をこねくり回すおれに仁サンが苦笑する。
「何だ?お前その手のマンガに興味あったか?お前が好きなのは無意味に小難しいヤツか、実用一辺倒に劇画調年上陵辱系のエロスなヤツだと思ってたけどな」
ご家族連れも利用するレストランでそんな台詞を吐くのはやめて頂きたい。
「水木しげる御大も一通りは揃えていますよ。……ま、こーいうのは確かにストライクゾーンじゃないんですが。こないだDVDを全巻一気に見せられて以来、まんざらでも無くなりましてね」
おれはケースの天頂部をみやる。そこには無愛想な事務的なラベルとは対照的な、何と言うかハートフルな愛らしいフォントで、以下のような文言が刻まれていた。
『サイバー堕天使えるみかスクランブル 第42話原稿 18~36ページ』
ふぅ、と一つ息をつく。ちょっとだけこの状況に緊張した。
そう、まさに今おれの手にあるのは、あの超人気連載マンガ『えるみかスクランブル』の原稿。それも雑誌に未だ掲載されていない、出来たてほやほやの生原稿なのだ。しかも、あの長らく待ち望まれた第42話と来ては、
「責任は重大、だよなあ」
任務達成率百パーセント、なんて看板には未練どころか最初から執着もないが、さすがに失敗して世の熱狂的な『えるみか』ファンに八つ裂きにされるのは避けたいところだった。
おれは唐突に盛大なくしゃみを上げ、周囲の人々、つまりは長旅の疲れを癒す善良なドライバー諸氏から冷たい目を向けられた。左右に愛想笑いと目礼を振り向いて謝る途中、もう一回大きなくしゃみをする。おれはたまらず、ささやかな夜食、たった今トレイに載せて運んできた味噌ラーメンに箸を伸ばした。世にラーメン数在れど、体を中から温めるという点に於いて味噌ラーメンに勝るものはあるまい。シャキシャキのもやしと甘いコーンが入っていれば及第点。その点、このレストランのラーメンは充分以上の出来だった。いやもうホント、どうせインスタントだろうと覚悟していたのだが、今日は結構ツイているらしい。立ちのぼる湯気にあごを湿らせ、幸せいっぱいに麺をすすりこむと、そのまま一気に三分の一を平らげてスープを飲み込み、熱交換を終えた肺の空気を一気に吐き出す。五臓六腑に染み渡るとはこのことだ。寒い夜のラーメンは格別である。つい先程まではアイスクリームも買おうか等と迷っていたのだが、戯けた考えを自粛して本当に良かった。
――正直に告白しよう。八月だからと言って、Tシャツ一枚にショートパンツとサンダルという格好は、あまりにもこの時この場所をナメておりました。窓際の席からよぉく見える、街の灯火に縁取られた夜の諏訪湖を見下ろし、おれは素直に反省した。
そう。ここは長野県。
八ヶ岳に抱かれたいにしえの湖を眼下に望む、中央高速自動車道、諏訪湖サービスエリアこそが、只今このおれ亘理陽司の存在している場所なのだった。
とはいえ、時刻は日付も変わろうかと言う深夜。せっかくの絶景も既に闇に沈んでおり、おれの感覚を占めているのは、本当にかすかにざわめく水の音ときらめく灯り、そして店内の喧騒と、響き渡る有線の音楽だった。世間様は夏休み真っ最中だが、さすがにこの時間帯になれば、店内も観光客より地元の若者やトラックの運転手の占める割合が多くなってくる。セルフサービスの無料のお茶(ホット)の紙コップを三つほど積み上げラーメンを堪能しながら、TVで流されているニュースと画面の右上に浮かんだ時刻を見やった。ザックに仕舞い込んだ週刊誌も粗方読みつくしている。
おれがこのサービスエリア内のレストランに陣取ってから、すでに六時間以上が経過しようとしていた。もう一つ、盛大なくしゃみ。まったく、夜の高地がここまで急激に冷え込むものだとは。まあ、半分以上は不可抗力だと思っている。何しろ夕方三時に、まるで税務署の酷吏のように住民をぎゅうぎゅうと締め上げる東京の焦熱地獄を脱出した時には、とてもこんな肌寒さを予想するどころではなかったのだから。
麺を半分ほどすすり終え、お楽しみに取っておいた大きめのナルトをいただこうとしたところで、『銭形警部のテーマ』がポケットから響き渡る。
「はいはい、亘理ッス」
それに対する返答は、受話器ではなくレストランの入り口から響いてきた。
「いたいた、おーう陽チン、待たせたな!」
「陽チンはやめてくださいって、仁サン」
おれは苦笑しつつ手を振る。玄関のドアが開き、レストランの入り口に一人の男が入ってきた。とりたてて美形と言うわけではないが、不思議と人目を引く男だ。二十代前半、長身に纏った薄手のシャツの下には、分厚い、実用的な筋肉がうねっているのがわかる。野生を感じさせるその面構えも相まって、ハードレザーでも着せて夜の街に立たせておけばさぞかし同性にモテるだろう。本人はさぞかし嫌がるだろうが。そんなおれの勝手な想像を知る余地もなく、青年はおれの視線を捕らえるとにやりと笑い、真っ直ぐ歩を進めてきた。
「都内出発から占めて九時間。随分待たせてくれるじゃないですか」
「何だお前、せっかく給料つきで自由時間くれてやったってのに、まさかただここで座ってました、なんてほざくんじゃないだろうな?」
おれの苦言などどこ吹く風。人ごみを飄々とすり抜けてこちらに近づいて来る。いつの間にかその右手にはトレイが握られ、気がつけば大盛のカツ丼とサイドメニューのうどんがそこに載り、テーブルに辿り着くまでにはデザート代わりのたこ焼きまでが載っていた。そのまま無造作にトレイを置くと、どっかりとおれの対面の椅子に腰を下ろす。いったいいつの間に食券を買って注文して、あまつさえ出来上がるまで待っていたというのか、等という愚問はこの人にはぶつけるだけ無駄である。付き合いはそれなりに長いが、教えてもらった事は一度も無いのだ。いわく、タネをばらしたら法でなく術になってしまうのだとか。
「アルコールも無しで夕方以降の六時間をどう潰せと?」
実際、諏訪湖に降りたならまだしも、このサービスエリアの中で周れる場所などたかが知れている。最初の一時間で一通り探索を終えた後、雑誌と違法改造携帯電話『アル話ルド君』にため込んだ動画と音楽、そしてTVニュースのお世話になっていた次第。エリア内には温泉があったのだが、どうせこれから散々汚れる事を考えると入る気にはなれなかった。
「出会いに二時間、食事に一時間。その後もうちっとお互いの理解を深めるのに二時間ってとこだろ」
心底出来の悪い弟子を嘆くような表情でこちらを見るのはやめて欲しい。
「生憎とおれの売りはアンタと違って、手の早さよりもじっくりつきあってこそわかる篤実な人格って奴なんですよ、仁サン。だいたい車をアンタが運転していっちゃったんだから、理解を深める場所も無いじゃないですか」
「木陰があれば充分だろ」
「アンタが言うと冗談に聞こえませんね」
「たこ焼き食うか?」
「いただきましょう」
このハードゲイ、もとい好青年は鶫野(つぐみの)仁(ひとし)さん。おれ達同様、人材派遣会社『フレイムアップ』でアルバイトに励むメンバーあり、その中でも古株に属する一人だ。今では自然とアルバイト達の取りまとめ役になっており、多数のメンバーが派遣される任務の際には、社員達のバックアップを受けて前線を指揮する小隊長になる事が多い。おれや直樹あたりにとっては、この仕事を始めた当時から何くれとなく世話になっている頼れる先輩といったところ。今回の仕事を引き受けたおれを、都内からこの諏訪湖まで愛用の四駆で引っ張って来たのも仁さんなのである。
「と言っても、今回はただの運搬役兼準備役だ。うちからの正式な選手は、お前と真凛ちゃんの二名、という事になる」
「こういう混成部隊で失敗しても、『任務成功率百パーセント』は維持出来ないんですかねぇ?」
「何言ってやがる、もともと失敗するつもりなんぞないくせに」
それもそうだ。そろそろ本題に入るべく、おれは話題を転換する。
「で、例のブツは?」
「あー安心しろ。お前がさみしい六時間を過ごしている間にバッチリ出来上がってんぜ」
これまた手品めいた仕草で仁サンがするり、と取り出したのは、ノートパソコンを収納するような耐衝撃性を高めたキャリーケースだった。ずいぶんと身が厚く、金槌でぶったたいても内容物に傷を負わせる事は出来そうに無い。なんでも引越し業者が精密機器の梱包に使うモノの親分筋なのだとか。
「お待ちかねの後半部分がこの中に入っている。作者から受け取ったその足でここまで運んできた。前半部分はすでに敵さんが持ち去って、ルールどおり待機してんぜ。諏訪のインターから上がってくる予定だ」
「あちらは契約どおり四人?」
「四人だそうだ。そしてこちらもお前さん以外の三人は準備OKだとよ」
マヨネーズのたっぷりのったたこ焼きと、勿論忘れずにナルトを口に放り込むと、おれはケースを手にとって眺める。ケースの口の部分には、これが『誰も開封していない』事を示す、封印の紙が貼り付けてあった。無駄だと解ってはいても、何とかしてその中身を閲覧できないか、と上下左右をこねくり回すおれに仁サンが苦笑する。
「何だ?お前その手のマンガに興味あったか?お前が好きなのは無意味に小難しいヤツか、実用一辺倒に劇画調年上陵辱系のエロスなヤツだと思ってたけどな」
ご家族連れも利用するレストランでそんな台詞を吐くのはやめて頂きたい。
「水木しげる御大も一通りは揃えていますよ。……ま、こーいうのは確かにストライクゾーンじゃないんですが。こないだDVDを全巻一気に見せられて以来、まんざらでも無くなりましてね」
おれはケースの天頂部をみやる。そこには無愛想な事務的なラベルとは対照的な、何と言うかハートフルな愛らしいフォントで、以下のような文言が刻まれていた。
『サイバー堕天使えるみかスクランブル 第42話原稿 18~36ページ』
ふぅ、と一つ息をつく。ちょっとだけこの状況に緊張した。
そう、まさに今おれの手にあるのは、あの超人気連載マンガ『えるみかスクランブル』の原稿。それも雑誌に未だ掲載されていない、出来たてほやほやの生原稿なのだ。しかも、あの長らく待ち望まれた第42話と来ては、
「責任は重大、だよなあ」
任務達成率百パーセント、なんて看板には未練どころか最初から執着もないが、さすがに失敗して世の熱狂的な『えるみか』ファンに八つ裂きにされるのは避けたいところだった。
人災派遣のフレイムアップ 第3話 『中央道カーチェイサー』 2
『月刊少年あかつき』。
それが『えるみかスクランブル』の掲載雑誌の名前である。
決してメジャーどころではないが、タイトルは若い世代なら大抵知っているマンガ雑誌だ。ただし読んでいる人はそれ程多くなく、コンビニでもなかなか見かけない。そのくせ掲載されているマンガの中でトップの人気を誇る作品――『えるみか』はまさにその一つだ――は、誰もが一度はアニメくらいは見た事がある。そんな微妙なバランスを保ったこの月刊誌の存在が、今回のお仕事のそもそもの発端である。
『少年あかつき』を刊行しているのは、大手出版社ホーリック。実用書や文芸小説、ビジネス雑誌を中心としてシェアを確保している、いわゆる『お堅い』会社である。そんなホーリックが突如月刊の、しかも少年マンガ雑誌などと言う畑違いのジャンルに進出したのが十数年前。
噂によれば、何でも叩き上げの当代の社長が『現代の少年達が、世間に蔓延る有害な漫画に触れて育てば、必ず二十年後の国家に深刻な悪影響を及ぼす』と息巻いたのがきっかけなのだとか。おれからしてみれば、ならそんな有害なマンガなんぞに関わらなければいいじゃないか、と思うのだが、一代で出版社を立ち上げた傑物の考えることは違った。彼の出した結論とは、『然らば、我々が率先して良質な漫画を供給し、以って少年達を啓蒙し健全な精神を育ませるべし』だったのだそうだ。世間ではこういうのを『大きなお世話』と言う。君、テストに出るから覚えておくようにね。
……当然と言えば当然なのだが、そんな社長が提起した『良質な漫画』、つまりはお堅くて品行方正で説教臭いモノばかりが集められた創刊号は、そりゃあもう致命的なまでに売れなかったらしい。当時の業界では「殿、ご乱心」なんて陰口が無数に飛び交ったのだそうだ。だが、当の社長はそんな逆風にめげることなく、他部門の利益を注ぎ込んで販促を行い、各誌から一昔前のいわゆる『旧き良き』時代の人気作家を招聘し、この『あかつき』を保護し続けた。土が悪くても肥料と水を与え続ければなんとか苗木が育つように、『あかつき』はそれなりには雑誌として成長を遂げていったのである。おおよそ十年前までは。おれは依頼を受けるに至った経緯を思い返した。
「十年前、その当時の社長が病気で引退されてから、『あかつき』の方向性は大きく変わりました」
今回の依頼人、弓削かをるさんはそう言ってアイスティーに口をつけた。東京都は高田馬場、『フレイムアップ』の簡易応接室である。節電精神を遵守して稼動するエアコンでは降り注ぐ赤外線のスコールに抗し切れないようで、部屋の中は良く言っても『どうにか暑くない』程度だった。応接に陣取る三者のうち、おれと浅葱所長は時折扇子や書類で風を起こして涼を補っていたが、当のクライアントは汗一つ浮かべず端然としたものである。ビジネススーツに身を包んだ一分の隙も無いその姿は、ホーリックの女編集者というよりは、どこかの検事と言った雰囲気だ、それもヤリ手の。こんな人が編集についた漫画家は、そりゃもう〆切という契約の重みを身をもって味わう事になるのだろう。
「もともと社長の道楽で創めたような雑誌でしたから、編集者達もどちらかと言えば事務的に仕事を捌いていました。しかし、社長が引退したからといって即廃刊と言うわけにはいかない。当時の編集者達は四苦八苦しながら慣れないマンガ編集に携わってゆき――」
「やがて本気になった、と」
弓削さんの冷たい視線がおれの顔を一撫でする。どうやら自分の言葉に割り込まれるのはお好きではないタイプの模様。そのまま言葉を続けて頂く。
「特に若手の編集者達は、これを好機と捉えた者も多く、それぞれが独自の基準で新人や他雑誌の作家を発掘し、登用して行きました。それからさらに試行錯誤の十年を経て、今につながる『あかつきマンガ』の作風が確立されるに到ったのです」
「あかつきマンガ、ねぇ」
おれは口の中で呟く。こりゃどう考えても、おれより直樹の野郎の領分だよなあ。確かあいつの部屋は、『あかつきコミック』が壁の一面を飾っていたはずだし。
ヤツの受け売りになるが、まあ何だ、弓削さんの言う『今につながるあかつきコミック』ってのは、若い男性向けの、繊細な絵柄の美少女、もしくは美女美少年の魅力をウリとしたマンガを指す、のだそうだ。奴等の世間ではそういうのを『萌えマンガ』と言う、らしい(正しく言葉を引用出来ている自信はおれには無い)。率直に言えば、おれにとって興味の無いジャンル、というわけ。
『えるみかスクランブル』はまさにその典型で、十数人の美少女と、彼女達を守護する天使の名前がつけられたロボット達が、魔界の侵略者から地球を守る、と言った内容である。主人公(とくにこれと言った取り柄はないのだがなぜかモテる)とレパートリーに富んだ美少女達の恋愛模様、ロボット同士のド派手な戦闘が若い世代に受けている、らしい。って言うとおれがいかにも若い世代ではないみたいだが。
それにしても、そのあかつきコミックの起源が『世間に蔓延る有害な漫画を駆逐する』事にあったとすれば、とかく周囲から偏見の目で見られがちの今の『あかつきマンガ』の姿は皮肉としか言いようが無い。先代社長もさぞかし草葉の陰で嘆いておられる事であろう。
「そう。嘆いていたのです。だから十年の闘病生活を経て、奇跡的に病気を克服した今、現在の事態を許すはずがなかったのです」
おっと。病気で引退したっつっても死んだわけでもなかったか。しかし結構いい歳だろうに。
「御歳七十五。あと十五年は現役を張るつもりだそうです」
さいでっか。
「社長が奇跡的に退院し、再び現職に返り咲いたのが一年前。そこから『あかつき』の編集部内には、粛清の逆風が吹き荒れる事となりました」
掲載されているマンガには興味が無いおれも、その話は業界四方山話として知っていた。強引な上層部の方針転換に対する、作家と若手編集者達の造反。業界内で、『あかつき御家騒動』、もしくは『ルシフェル事変』と呼ばれる一連の騒動が巻き起こったのである。
それが『えるみかスクランブル』の掲載雑誌の名前である。
決してメジャーどころではないが、タイトルは若い世代なら大抵知っているマンガ雑誌だ。ただし読んでいる人はそれ程多くなく、コンビニでもなかなか見かけない。そのくせ掲載されているマンガの中でトップの人気を誇る作品――『えるみか』はまさにその一つだ――は、誰もが一度はアニメくらいは見た事がある。そんな微妙なバランスを保ったこの月刊誌の存在が、今回のお仕事のそもそもの発端である。
『少年あかつき』を刊行しているのは、大手出版社ホーリック。実用書や文芸小説、ビジネス雑誌を中心としてシェアを確保している、いわゆる『お堅い』会社である。そんなホーリックが突如月刊の、しかも少年マンガ雑誌などと言う畑違いのジャンルに進出したのが十数年前。
噂によれば、何でも叩き上げの当代の社長が『現代の少年達が、世間に蔓延る有害な漫画に触れて育てば、必ず二十年後の国家に深刻な悪影響を及ぼす』と息巻いたのがきっかけなのだとか。おれからしてみれば、ならそんな有害なマンガなんぞに関わらなければいいじゃないか、と思うのだが、一代で出版社を立ち上げた傑物の考えることは違った。彼の出した結論とは、『然らば、我々が率先して良質な漫画を供給し、以って少年達を啓蒙し健全な精神を育ませるべし』だったのだそうだ。世間ではこういうのを『大きなお世話』と言う。君、テストに出るから覚えておくようにね。
……当然と言えば当然なのだが、そんな社長が提起した『良質な漫画』、つまりはお堅くて品行方正で説教臭いモノばかりが集められた創刊号は、そりゃあもう致命的なまでに売れなかったらしい。当時の業界では「殿、ご乱心」なんて陰口が無数に飛び交ったのだそうだ。だが、当の社長はそんな逆風にめげることなく、他部門の利益を注ぎ込んで販促を行い、各誌から一昔前のいわゆる『旧き良き』時代の人気作家を招聘し、この『あかつき』を保護し続けた。土が悪くても肥料と水を与え続ければなんとか苗木が育つように、『あかつき』はそれなりには雑誌として成長を遂げていったのである。おおよそ十年前までは。おれは依頼を受けるに至った経緯を思い返した。
「十年前、その当時の社長が病気で引退されてから、『あかつき』の方向性は大きく変わりました」
今回の依頼人、弓削かをるさんはそう言ってアイスティーに口をつけた。東京都は高田馬場、『フレイムアップ』の簡易応接室である。節電精神を遵守して稼動するエアコンでは降り注ぐ赤外線のスコールに抗し切れないようで、部屋の中は良く言っても『どうにか暑くない』程度だった。応接に陣取る三者のうち、おれと浅葱所長は時折扇子や書類で風を起こして涼を補っていたが、当のクライアントは汗一つ浮かべず端然としたものである。ビジネススーツに身を包んだ一分の隙も無いその姿は、ホーリックの女編集者というよりは、どこかの検事と言った雰囲気だ、それもヤリ手の。こんな人が編集についた漫画家は、そりゃもう〆切という契約の重みを身をもって味わう事になるのだろう。
「もともと社長の道楽で創めたような雑誌でしたから、編集者達もどちらかと言えば事務的に仕事を捌いていました。しかし、社長が引退したからといって即廃刊と言うわけにはいかない。当時の編集者達は四苦八苦しながら慣れないマンガ編集に携わってゆき――」
「やがて本気になった、と」
弓削さんの冷たい視線がおれの顔を一撫でする。どうやら自分の言葉に割り込まれるのはお好きではないタイプの模様。そのまま言葉を続けて頂く。
「特に若手の編集者達は、これを好機と捉えた者も多く、それぞれが独自の基準で新人や他雑誌の作家を発掘し、登用して行きました。それからさらに試行錯誤の十年を経て、今につながる『あかつきマンガ』の作風が確立されるに到ったのです」
「あかつきマンガ、ねぇ」
おれは口の中で呟く。こりゃどう考えても、おれより直樹の野郎の領分だよなあ。確かあいつの部屋は、『あかつきコミック』が壁の一面を飾っていたはずだし。
ヤツの受け売りになるが、まあ何だ、弓削さんの言う『今につながるあかつきコミック』ってのは、若い男性向けの、繊細な絵柄の美少女、もしくは美女美少年の魅力をウリとしたマンガを指す、のだそうだ。奴等の世間ではそういうのを『萌えマンガ』と言う、らしい(正しく言葉を引用出来ている自信はおれには無い)。率直に言えば、おれにとって興味の無いジャンル、というわけ。
『えるみかスクランブル』はまさにその典型で、十数人の美少女と、彼女達を守護する天使の名前がつけられたロボット達が、魔界の侵略者から地球を守る、と言った内容である。主人公(とくにこれと言った取り柄はないのだがなぜかモテる)とレパートリーに富んだ美少女達の恋愛模様、ロボット同士のド派手な戦闘が若い世代に受けている、らしい。って言うとおれがいかにも若い世代ではないみたいだが。
それにしても、そのあかつきコミックの起源が『世間に蔓延る有害な漫画を駆逐する』事にあったとすれば、とかく周囲から偏見の目で見られがちの今の『あかつきマンガ』の姿は皮肉としか言いようが無い。先代社長もさぞかし草葉の陰で嘆いておられる事であろう。
「そう。嘆いていたのです。だから十年の闘病生活を経て、奇跡的に病気を克服した今、現在の事態を許すはずがなかったのです」
おっと。病気で引退したっつっても死んだわけでもなかったか。しかし結構いい歳だろうに。
「御歳七十五。あと十五年は現役を張るつもりだそうです」
さいでっか。
「社長が奇跡的に退院し、再び現職に返り咲いたのが一年前。そこから『あかつき』の編集部内には、粛清の逆風が吹き荒れる事となりました」
掲載されているマンガには興味が無いおれも、その話は業界四方山話として知っていた。強引な上層部の方針転換に対する、作家と若手編集者達の造反。業界内で、『あかつき御家騒動』、もしくは『ルシフェル事変』と呼ばれる一連の騒動が巻き起こったのである。
人災派遣のフレイムアップ 第3話 『中央道カーチェイサー』 3
社長が死神に愛想を尽かされて現職にカムバックしてからと言うもの、『あかつき』の編集部内は宗教弾圧真っ盛りの中世さながらだったそうだ。
まず最初に行われたのが、主要連載マンガ陣の打ち切りである。人気の無くなったマンガのストーリーが急展開したと思ったら三、四話後に打ち切り、というパターンはどの雑誌でも良くある話だ。だが、『あかつき』では人気の主力連載でこれが唐突に行われたのである。
困惑する読者を尻目に次に行われたのが、残った人気マンガの他誌への移籍。ホーリック社は『あかつき』の他に、四ヶ月に一回刊行する季刊『あかつきSEASON』を持っている。本来は新人の読み切りや『あかつき』本誌連載の外伝を掲載したりする、いわば二軍的役割の雑誌だったのだが、主力連載がこの『SEASON』にいきなり移管されたのである。当然これらの処置に連載のファンと、そして当の作家達は怒り狂った。だが、自らの信念を以って進む社長にとってはそんなものは打破すべき有害図書の怨嗟に過ぎず、抗議の声は踏みつぶされ、ますます『あかつき』から『あかつきマンガ』は排除されていったのだった。
そして空いた穴を埋めるべく大量に投入されたのが、円熟したベテラン作家による一昔、いや、三昔前の『清く正しい』王道少年漫画の群れだった。そりゃもうスポ根、青春、熱血、努力、勝利、下手すりゃ愛国なんて言葉も大真面目に飛び出すような連載陣。それはまさに、創刊当時の『あかつき』の復刻だった。
「当然、私達編集や作家も大いに困惑したのですが、一番の被害者は読者でした」
そりゃそうだ。繊細な美少女や格好良い美青年の活躍を楽しみにページをめくった読者が、劇画調のオッサンがぎっしり詰まったコマを目にしたらそりゃ詐欺だと思うだろう。結果として、『あかつき』は十年に渡って開拓して来た読者を多く失う事になった。
ワンマン社長の独裁が吹き荒れる中、この十年を築き上げてきたマンガ家達、そしてかつての若手にして今の中堅どころの編集者達の気持ちは到底収まるものではなかった。彼等はやがて一つの決断を行う。――我々が育ててきたこの『あかつきマンガ』の芽を、あの社長の独善で潰させるわけにはいかない、と。
そして叛乱が始まった。
当時の編集長が資金を調達し、出版社『ミッドテラス』を設立。そして現『あかつき』の主要スタッフと、『SEASON』に追いやられていた作家陣を引きつれ集団でホーリック社を離脱したのである。そしてミッドテラス社は月刊誌『ルシフェル』を設立。『あかつき』で辛酸を舐めた連載陣を、一部タイトル名を変えた程度でほとんどそのまま復活させたのだ。
もともとホーリックが『あかつき』を創刊し、今また強引な方針転換を推し進めたのは、社長の独善的とも言える思い込みによるものである。だが、――いや、だからこそか――社員とマンガ家の大量離脱という裏切り行為は事態は社長にとって許せるものではなかったようだ。例えそれが『あかつき』から彼の嫌う異分子がいなくなる事を意味していたとしても。
そしてホーリック社はミッドテラス社を提訴。『ルシフェル』における連載陣はすべて『あかつき』の連載の続編であり、明確な著作権違反だと指摘。対するミッドテラス社はホーリック社の横暴な振る舞いを訴え、また、自社の連載陣はあくまで同一作者の別の連載である、と主張し、作品の著作権や作家の所属、はたまた著作権の解釈そのものを巡って、両社は激しく争う事になった。半年以上経過した今もこの騒動は法廷で継続しており、時々テレビや新聞を賑わせている。
そして、半年以上継続しているこの『ルシフェル事変』において、当初から一貫して一番の台風の目だったのが、『あかつき』のトップ人気マンガ、『えるみかスクランブル』である。
主要の連載の多くが打ち切られ、また『SEASON』に移された時も、その後も、一番人気の『えるみか』だけは手を付けられる事が無かった。理由は簡潔。稼ぐ金が大きすぎて、ワンマン社長と言えども迂闊に手が出せなかったのである。数度のアニメ化、ドラマCD化、映画化もなされ、フィギュア等のグッズ類が上げる利益は莫大。『あかつき』は知らなくても『えるみか』は知っている、という人々が多数居るこの御時世だ。『えるみか』の連載中止はそのまま『あかつき』の致命傷に、いや、もはや母体であるホーリック社の屋台骨にまで大きな損害を与えかねないものとなっていたのである。
反面、『ルシフェル』としては、『えるみか』とその作者『瑞浪 紀代人(ミズナミ キヨト)』は何としてでも自社側に引き抜いておきたいカードだった。人気連載をまとめて引き抜いたミッドテラス社も、お家騒動のゴタゴタで多くの読者の離反を招いており、決して安穏と出来る状況ではなかったのである。いや、もっと辛辣に言ってしまえば、『えるみか』という主力作品なしに単品で勝負出来るだけの連載は無かった、と解釈する事も出来る。ミッドテラス社は設立当時から瑞浪氏に対して強い勧誘を続けていたが、先の理由によりホーリック社もこれだけは例外と断固として勧誘を跳ねつける。やがて、ミッドテラスの勧誘とそれに対するホーリックの妨害は次第に強引、強硬なものとなり、両社に挟まれた形になった瑞浪氏は執筆以外のストレスに体調を崩すようになっていった。
そして数ヶ月が経過したころ。
『ルシフェル事変』は、著作権の正当性や各作家の意志という法律やモラルの問題から、次第に『瑞浪紀代人はどちらで連載をすべきか』という、きわめて生臭い一点に集約していったのである。片や、専制君主の意向で切り捨てたいのに切り捨てる事が出来ない『あかつき』側と、喉から手が出るほど切実に欲しいのに、『あかつき』で連載されている限り手出しが出来ない『ルシフェル』。決め手を欠く両社が表と裏の双方の世界で暗闘を繰り広げて行くうちに、事態は深刻さを増す一方だった。
世に少年漫画雑誌は『あかつき』と『ルシフェル』だけに在らず。アニメ化される人気マンガは『えるみか』だけに在らず。当然と言えば当然のことであるが、両社が終わらぬいさかいを繰り返す内に、奪い合いをしているはずの読者達はどんどん他誌へと流れていったのである。
ゴタゴタが続く中、当の『えるみか』も”作者都合により”休載がちになっており、殊に現在は、41話が掲載されてから既に三ヶ月連載がストップしていた。これらの裏事情はとっくの昔にあまさずネット経由でリークされており、公式サイトやファンによるコミュニティは日々炎上。読者の怒りは頂点に達していた。
このままでは共倒れ。
その認識を持つに到った双方は、極めて合理的な問題解決方法を選択した。すなわち――ケーキの取り合いになったらジャンケンで勝負を決める。これと同様に、企業間の揉め事になったら、『異能力者達の競争』で勝負を決める。――ここ最近、企業間の裏社会で急速に広まりつつある方法を。
まず最初に行われたのが、主要連載マンガ陣の打ち切りである。人気の無くなったマンガのストーリーが急展開したと思ったら三、四話後に打ち切り、というパターンはどの雑誌でも良くある話だ。だが、『あかつき』では人気の主力連載でこれが唐突に行われたのである。
困惑する読者を尻目に次に行われたのが、残った人気マンガの他誌への移籍。ホーリック社は『あかつき』の他に、四ヶ月に一回刊行する季刊『あかつきSEASON』を持っている。本来は新人の読み切りや『あかつき』本誌連載の外伝を掲載したりする、いわば二軍的役割の雑誌だったのだが、主力連載がこの『SEASON』にいきなり移管されたのである。当然これらの処置に連載のファンと、そして当の作家達は怒り狂った。だが、自らの信念を以って進む社長にとってはそんなものは打破すべき有害図書の怨嗟に過ぎず、抗議の声は踏みつぶされ、ますます『あかつき』から『あかつきマンガ』は排除されていったのだった。
そして空いた穴を埋めるべく大量に投入されたのが、円熟したベテラン作家による一昔、いや、三昔前の『清く正しい』王道少年漫画の群れだった。そりゃもうスポ根、青春、熱血、努力、勝利、下手すりゃ愛国なんて言葉も大真面目に飛び出すような連載陣。それはまさに、創刊当時の『あかつき』の復刻だった。
「当然、私達編集や作家も大いに困惑したのですが、一番の被害者は読者でした」
そりゃそうだ。繊細な美少女や格好良い美青年の活躍を楽しみにページをめくった読者が、劇画調のオッサンがぎっしり詰まったコマを目にしたらそりゃ詐欺だと思うだろう。結果として、『あかつき』は十年に渡って開拓して来た読者を多く失う事になった。
ワンマン社長の独裁が吹き荒れる中、この十年を築き上げてきたマンガ家達、そしてかつての若手にして今の中堅どころの編集者達の気持ちは到底収まるものではなかった。彼等はやがて一つの決断を行う。――我々が育ててきたこの『あかつきマンガ』の芽を、あの社長の独善で潰させるわけにはいかない、と。
そして叛乱が始まった。
当時の編集長が資金を調達し、出版社『ミッドテラス』を設立。そして現『あかつき』の主要スタッフと、『SEASON』に追いやられていた作家陣を引きつれ集団でホーリック社を離脱したのである。そしてミッドテラス社は月刊誌『ルシフェル』を設立。『あかつき』で辛酸を舐めた連載陣を、一部タイトル名を変えた程度でほとんどそのまま復活させたのだ。
もともとホーリックが『あかつき』を創刊し、今また強引な方針転換を推し進めたのは、社長の独善的とも言える思い込みによるものである。だが、――いや、だからこそか――社員とマンガ家の大量離脱という裏切り行為は事態は社長にとって許せるものではなかったようだ。例えそれが『あかつき』から彼の嫌う異分子がいなくなる事を意味していたとしても。
そしてホーリック社はミッドテラス社を提訴。『ルシフェル』における連載陣はすべて『あかつき』の連載の続編であり、明確な著作権違反だと指摘。対するミッドテラス社はホーリック社の横暴な振る舞いを訴え、また、自社の連載陣はあくまで同一作者の別の連載である、と主張し、作品の著作権や作家の所属、はたまた著作権の解釈そのものを巡って、両社は激しく争う事になった。半年以上経過した今もこの騒動は法廷で継続しており、時々テレビや新聞を賑わせている。
そして、半年以上継続しているこの『ルシフェル事変』において、当初から一貫して一番の台風の目だったのが、『あかつき』のトップ人気マンガ、『えるみかスクランブル』である。
主要の連載の多くが打ち切られ、また『SEASON』に移された時も、その後も、一番人気の『えるみか』だけは手を付けられる事が無かった。理由は簡潔。稼ぐ金が大きすぎて、ワンマン社長と言えども迂闊に手が出せなかったのである。数度のアニメ化、ドラマCD化、映画化もなされ、フィギュア等のグッズ類が上げる利益は莫大。『あかつき』は知らなくても『えるみか』は知っている、という人々が多数居るこの御時世だ。『えるみか』の連載中止はそのまま『あかつき』の致命傷に、いや、もはや母体であるホーリック社の屋台骨にまで大きな損害を与えかねないものとなっていたのである。
反面、『ルシフェル』としては、『えるみか』とその作者『瑞浪 紀代人(ミズナミ キヨト)』は何としてでも自社側に引き抜いておきたいカードだった。人気連載をまとめて引き抜いたミッドテラス社も、お家騒動のゴタゴタで多くの読者の離反を招いており、決して安穏と出来る状況ではなかったのである。いや、もっと辛辣に言ってしまえば、『えるみか』という主力作品なしに単品で勝負出来るだけの連載は無かった、と解釈する事も出来る。ミッドテラス社は設立当時から瑞浪氏に対して強い勧誘を続けていたが、先の理由によりホーリック社もこれだけは例外と断固として勧誘を跳ねつける。やがて、ミッドテラスの勧誘とそれに対するホーリックの妨害は次第に強引、強硬なものとなり、両社に挟まれた形になった瑞浪氏は執筆以外のストレスに体調を崩すようになっていった。
そして数ヶ月が経過したころ。
『ルシフェル事変』は、著作権の正当性や各作家の意志という法律やモラルの問題から、次第に『瑞浪紀代人はどちらで連載をすべきか』という、きわめて生臭い一点に集約していったのである。片や、専制君主の意向で切り捨てたいのに切り捨てる事が出来ない『あかつき』側と、喉から手が出るほど切実に欲しいのに、『あかつき』で連載されている限り手出しが出来ない『ルシフェル』。決め手を欠く両社が表と裏の双方の世界で暗闘を繰り広げて行くうちに、事態は深刻さを増す一方だった。
世に少年漫画雑誌は『あかつき』と『ルシフェル』だけに在らず。アニメ化される人気マンガは『えるみか』だけに在らず。当然と言えば当然のことであるが、両社が終わらぬいさかいを繰り返す内に、奪い合いをしているはずの読者達はどんどん他誌へと流れていったのである。
ゴタゴタが続く中、当の『えるみか』も”作者都合により”休載がちになっており、殊に現在は、41話が掲載されてから既に三ヶ月連載がストップしていた。これらの裏事情はとっくの昔にあまさずネット経由でリークされており、公式サイトやファンによるコミュニティは日々炎上。読者の怒りは頂点に達していた。
このままでは共倒れ。
その認識を持つに到った双方は、極めて合理的な問題解決方法を選択した。すなわち――ケーキの取り合いになったらジャンケンで勝負を決める。これと同様に、企業間の揉め事になったら、『異能力者達の競争』で勝負を決める。――ここ最近、企業間の裏社会で急速に広まりつつある方法を。